伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

プロフィール

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いだ信光 プロフィール

生年月日

1952年4月13日午前10時、岐阜県岐阜市生まれ。

血液型

O型

学歴

京都大学法学部卒業

略歴

1976年 三菱商事入社 鉄鋼部門
1981年 三菱商事退社
1982年 曹洞宗 岡山県玉島円通寺で得度。
福井県 大本山永平寺に上山。
1984年 永平寺下山。愛媛県新居浜市瑞応寺で修行。
1985年 托鉢修行の後、海外修行。
1986年 還俗、結婚。
1987年 奈良県十津川村移住。民宿「洗山」経営。
1989年 奈良市内に移住。個別指導の学習塾経営。
1990年 「幸福の科学」に奉職。精舎館長を歴任。
2013年 「幸福実現党」に奉職。シニア局長。
2014年 研修局長(兼)シニア局長に就任。

家族構成

母、妻、子供3人(一女、二男)、犬2匹

趣味

寺社仏閣巡り、読書、映画鑑賞

座右の銘

人を信じ、世を信じ、仏を信ず。
愛に敵なし。念いは必ず実現する。

座右の本

「太陽の法」「仏陀再誕」「愛から祈りへ」

私の魂の遍歴

※長文なので、お時間のある時に、ゆっくり、ご覧下さい。

1952年4月13日午前10時、岐阜県岐阜市に生まれる。両親の里は、郡上踊りで有名な岐阜県郡上郡八幡町である。郡上八幡には、高校2年まで毎年、夏の間は勉強と盆踊りで帰っていた。
郡上八幡の美しい川と山が私の故郷の原風景である。
父は国家公務員。
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三重県伊勢市に転勤になり、伊勢神宮の外宮の横の明倫保育園と明倫小学校に入学。
伊勢湾台風の直前に名古屋市に転居した。

中学1年の時、般若心経の「色即是空・空即是色」の言葉に強い衝撃を受けた。
その頃から、宗教的なものはあったのだろう。
中学では、生徒会長や卓球部のキャプテンを務めた。
高校では、時の安田講堂事件等の影響を受け、学生集会やデモを経験し、如何に生きるべきか、社会とどう関わるべきか、何を人生の目的にすべきかを悩んだ。
1年浪人して、京都大学法学部に入学。

大学時代

浅間山荘事件が起こった年の京都大学は、学生運動の最も盛んな時期だった。
多くのセクトのオルグを受けるが、唯物論の考え方はしっくり来ず、結局、浪人中に掴んだ「徳」の形成を中心にした人生を基礎におきながら、人生論や哲学や倫理書を読み、お寺や教会を巡り、人生の目的を探究した。

松原泰道師の「般若心経入門」の中の至道無難禅師の「摩訶般若波羅密多の智慧は滞らず止まらず」という言葉に出会った時には、初めて法雨の涙を流した。

嵐山の苔寺の近くの地蔵院の枯山水の庭を見ながら、ぼんやり鴨居に眼をやると、そこに「十牛図」という、禅をする者の理想の生活が十枚の絵に描かれていた。

「牛を尋ねて旅に出かけ、牛の足跡を見つけ、牛の姿を見つけ、牛を捕まえて家に帰り、牛を納屋につなぎ、牛を捕まえたことを忘れ、(白紙)、里に帰り、普通の生活をして、人々を済度(救済)する」という禅者の生活が描かれていた。

そこで、牛を求めようと私は決意し、自分の人生のスタートを切ることになった。
牛とは私の理解では、悟りと言ってもよいと思う。

その後、不思議な床屋さんとの出会いから、私は幸福を探究し始めた。
当時54歳の彼が様々に私の未来を予言し、その後どんどん成就して行く。

彼が私の卒業祝いに、伊田家の剣カタバミの家紋を柿の木に掘ってくれた。
その裏に墨で書いてくれた送別の言葉が、渋沢栄一の「夢七訓」である。

「夢なき者は理想なし。理想なき者は信念なし。信念なき者は計画なし。計画なき者は実行なし。実行なき者は成果なし。成果なき者は幸福無し。ゆえに幸福を求むる者は夢なかるべし。」

その後、私は十牛図を理想に、牛を求めて旅に出て、未だに夢を追い続けている。

会社時代

大学を卒業して、三菱商事に入社し、鉄鋼部門に配属され、当時花形の自動車用の薄板の営業をやった。

その時は、新しい社会が眩しく、何でも手を出した。
仕事もバリバリやった。
遊びも激しかった。

銀座赤坂六本木、ディスコで踊り、1日に8軒飲み歩いた事もある。
タバコも1日に最低2箱、麻雀、ゴルフ、お酒がほとんど抜けなかった。
ボーナスは右から左に、ツケで消えていった。
鉄鋼部門の野球のチームにも入り、ボートのナックルフォアの競技にも出ていた。

さらに、有り余るエネルギーをスキー部で発散し、金曜日の晩から日曜日の夜までという強行スケジュールのスキーに11週連続で行ったこともある。
実業団の大回転競技に参加したこともある。一応、スキーは一級を取った。
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青春を謳歌していたとも言えるが、実にこの世的な生活をしていた。

そして、私は段々虚しくなった。
何の為に生きているのか。
派手な生活の裏では、宗教書を読み、瞑想をし、宗教施設を巡っていた。
そして、岡山転勤の前頃から、私は会社を止める事を考えていた。

1980年の年末から81年に、インドのヨガのアシュラムの瞑想キャンプに向かう。
そこで、青空に現れ消える雲を見ながら退職を決意する。

インドから帰って退職願を出すが、受け入れられず、その間に、良寛さん修行の寺、岡山県倉敷市玉島円通寺との御縁ができる。
円通寺は行基菩薩の彫られた星浦の観音さんをご本尊にした曹洞宗の寺であり、中国三十三観音霊場の七番札所である。

その寺に行き、良寛堂で寝袋を持ち込んで参禅していた時、矢吹憲道老師に、「弟子にならんか」と声をかけられ、9日目の朝、修行僧の姿の良寛像の前で、弟子になることをお願いする。

僧侶時代

出家得度は1982年2月27日である。

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憲道老師は65歳で出家し、大本山永平寺に修行僧として上がった。
今でもおそらく最年長の雲水であろう。
永平寺に上がった時も、若者に交じって修行していた頃の奮闘ぶりが伝説となっていた。私が出会った時は78歳であり、広島の原爆の後遺症で通院しておられた。

礼節を重んじ、私の両親が出家をなんとか止めようと直談判に来た時には、病院の待合室で正装をし、予定の1時間前から背筋を伸ばして待っておられた。
その姿を見た両親は、「息子をよろしくお願いします」と言うしかなかった。

老師は私に「座禅だけは人に負けずに永平寺で頑張って来なさい。」と言われた。
その教えは守ったつもりである。
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私が永平寺での2年目の修行が終わりに近づいた頃、老師は亡くなられた。
永平寺から夜中に駆けつけた時まで、私の帰りを待っておられ、眼を見て、後を頼むと伝えられた後、息を引き取られた。
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そして、私は永平寺を去り、さらに修行をする為に、世界からも修行僧が集まる、四国新居浜の瑞応寺の楢崎一光師の下に行く。
そして、そこでの修行の後に、托鉢修行を近畿一円で行なった。

放浪時代

百回の托鉢業の後、海外の修行に出た。

ネパールでは、チョモランマと並び称される、3800メートルのムクティナートという聖地まで徒歩で巡礼し、そこで定住して座禅に打ち込んだ。


お釈迦様の御生誕の地ルンビニでは、日の出前から起きて瞑想をして、御生誕の日をそこで迎えた。

インドでもリシュケシ、ハルドワールなど北ヒマラヤの聖地や、チベッタンバレーで、座禅修行に邁進した。

私なりに三昧の境地を追究し、日本に帰り、そして、半年後に還俗した。
それは、心の内の命令に従ったからだ。
それは、この世的には、大変非常識な不義理をすることだった。
私は29代住職として後継者登録されていたからだ。
しかし、私は、結局、そこを飛び出した。

結婚そして幸福の科学との出会い

私は知り合ってから11年、二人で会った回数はたった5回の、商事の時のスキー部の同期の女性と結婚する。
5回会った中で三菱商事在職中、永平寺修行中、インド放浪中の3回結婚を申し込み、断られていた女性である。

インドで瞑想していた時に彼女の顔が出て来て、「この人と結婚したら、必ず道に引き戻される。」というインスピレーションを受けていた。
妻はその時、「この人の人生の邪魔だけはしない。もし、邪魔する様になったらこの人の前から消える。」という思い一つを持って、住所不定無職の私の下に来た。
本当にゼロからのスタートである。
お互い変わり者である。


それから、私達は、奈良県にある日本一過疎の十津川村に入る。

そこで、長女を授かる。

そして、娘が生まれた翌日1988年9月12日に、和歌山県新宮市の産院近くの本屋で出会ったのが、大川隆法総裁先生の「黄金の法」だ。

それを見た瞬間、私は心の中で「出た!遅れた!」と叫んでいた。
インドまで探しに行った師が日本におられたのだった。

私はその直後、妻の入院している部屋に駆け込み、「バイブル見つけた」と興奮しながら叫んだ。
そして、その日徹夜で「黄金の法」を読み続けた。

私は、その時、大川隆法総裁先生が、お釈迦様の再来であることを直観していた。

そして、明け方、師にお手紙を書いた。
「どうぞ、お近くで、五体倒置をさせて頂きたい」というような内容だったと思う。

そして、当時発刊されていた54冊の本を全て取り寄せ、寝食を忘れて1ヶ月で読み、会員になる為の願書を書いた。
それは11月22日、奇しくも床屋さんと出会った同じ日に私は会員になった。

再び町へ、そして出家へ

その後、私は、救世運動に参加したい気持ちが抑えきれず、十津川の山奥でやっていた民宿「洗山(せんざん)」をたたみ、「申し訳ないが、私は町には住めない。」と妻に言っていた私だが、再び町に出て個別指導の学習塾の経営を行なった。

そして、1990年9月から「幸福の科学」で奉職する。
牛を求めて出かけた旅が、夢に導かれて幸福に辿り着き、牛の姿をはっきりと見つけた瞬間だった。

それから23年間、自分の未熟さに苦しみながらも主に導かれ、また、多くの方に支えられて今日まで歩いて来る事ができた。
特に、1996年総本山正心館落慶以来は、全国の正心館で宗教修行、研修の仕事をさせて頂いてきた。

幸福実現党へ

2013年7月、幸福実現党のシニア局の仕事をさせていただく事になった。

最も、政治に遠いように思われた私が、政治の世界に身を置く事になったことに、天の配剤と運命を感じる。
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本来、政治とは、天にある神の命(めい)を地上に具体化する聖なる政(まつりごと)と考えている私にとって、本当にやりたい所に身を置くことになったのかもしれない。
宗教と政治は本来一体であるべきだと信じている。

どこまで掴めたかは解らないが、いよいよ、本当に神仏の心に沿う事ができるのか、政治の世界で実践してみよと言うことなのだと思う。
これからが本当の意味で本番の仕事、人生に入ったのではないかと思う。

振り返って

現在、長女、長男、次男の3人の子供と妻、実母の6人家族である。
これまで、本当に沢山の事があった。


夫婦の大バトルが原因で妻が癌に。そして奇跡の回復。
両親との同居によって起きた諸問題、子供の登校拒否、反抗、親の病気、認知症の発症、そして介護。
学ぶべきものが必ずあるはずと、主の教えを頼りに、皆で乗り越えてきた。

そして、今は本当に幸せだとつくづく思う。
後はお返しの人生のみ。
真実一路、生涯現役で、理想実現に邁進する覚悟である。

「必要なものが必要なときに必要なだけ与えられる」ことを信じて、ただただ真正直に馬鹿一の如く真理の具体化、人類の幸福実現、地球のユートピア化を目指して、挑戦し続けるのみである。

私は「人を信じ、世を信じ、仏を信じる」という大川隆法総裁先生の言葉を大切にしている。

日本に生涯現役社会を創り、世界に理想社会のモデルを示し、ゴールデンエイジを到来させたいと強く念う。
日本が世界をリードし、地球に平和と自由と繁栄が訪れる日が必ず来ると信じている。

念いは必ず実現する。

合掌

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