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【「徳」の探究の時代 第20回】

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【「徳」の探究の時代 第20回】

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【自分の手柄を考えず、人のために生きるなかに、「徳」が生れる】

 

「徳」には、「求めて得られるものでもない」、という微妙な逆説がある。
それは、求めるのが自我であった場合、神の性質である「徳」とは、相容れないものであるからだ。

 

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10141502_543cbc922bd94神様の目から見たら、「人間として生きて、積んできた徳がどれだけのものか」ということは見誤ることはないので、そのあたりはあまり計算高く考える必要はないのではないかと思います。…

 

「男性として生きて成功し、その成功の手柄をすべて自分だけのものにして、独り占めする」という人は、人気もなくなるし、徳も失われていくことが多いのです。

 

やはり、惜しまれて、後世から称えられる男性というのは、自分の手柄にせず多くの人たちの成功のために、その身を投げ出していったような人です。

そういうことに命を惜しまなかったような人が、名前が遺っている場合が多いし、死後、あの世で神様になっている場合が多いのです。

 

その意味では、男女ともに同じではないかなという気がします。

 

        (『女性らしさの成功社会学』p89〜90)

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「徳」を、神が見誤ることはない。
そして、「悪徳」も「姑息さ」も「小賢しさ」も、神は見誤ることはない。
 
これを知って、「ありがたい」と思うか、「まずい」と思うか。
 
いずれにしても、「徳」に向う可能性は残されている。
神を信じる心があるからだ。
 
逆説的ではあるが、
自分の手柄を考えず、人のために生きるなかに、「徳」が生れる。
この生き方には「美」がある。
 
残念であり、悲しいことではあるが、
人の手柄を横取りして、自分の手柄とする人の多いことよ。
それを平然となせる人の醜さには、
怒りを通り越して、哀れさを感じる。
 
その差は、一体どこから来ているのだろう。
 
それは、神の存在を本当に信じているかどうか、
神が全知全能で、全てを見誤ることはないと、
確信しているかどうかではないだろうか。

 

ふくろうくん20神を信じぬ者に、

 

神の目を恐れぬ者に、

 

「徳」が生れることは断じてない、と信じることだ。

 

 

 


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