伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【「徳の探究」の時代】

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【「徳の探究」の時代】

 

【No.2《第二回 才は徳に使われる》】

 

「才は徳に使われる」とは、よく使われる言葉です。
才と徳の関係に対して、大川隆法総裁先生は、次のように述べておられます。

 

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51ljrefeoll-_sx336_bo1204203200_才と徳は上下関係がはっきりしています。才は徳に使われるのです。

 

「頭が悪い」と思われる人であっても、その周りに天才や偉人が集まることがあります。それは、その人に「徳」があるからです。

 

才は徳に使われるという関係になっているのです。

才能は、知識的なものと、そうとう関係があります。

 

知的な人は才ある人でしょう。

才ある人の心を揺さぶり、その人を思いのとおりに動かすには、徳が要るのです。

 

徳とは何であるかを説明することは難しいのですが、

「徳とは、霊的な悟りの総合力である」と言えるでしょう。

 

               (『信仰のすすめ』/第3章/5 信仰と知の関係)

 

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ここではっきりしたのは、才と徳の上下関係は、徳が上ということです。
その上下を表わす明確なこの世的な基準があるわけではないのですが、実際問題として、才ある人は、徳ある人によって使われる関係になってしまうのです。
 
それは、目に見えない徳の力が、才ある人の心を揺さぶり、その人のために動きたい、働きたい、仕えたいと思わせる力を持っているからです。
ここには、三国志の劉備玄徳と諸葛孔明の関係を思わせるものがあります。

 

その力は、「霊的な悟りの総合力だ」と言われます。
「悟りとは認識力である」とも言われますが、その認識する力が、この世の知識的なものではなく、霊的な力であるわけです。
霊的というと分かりにくいですが、「心の世界のことがよく分かる」ということです。
人間は、頭で理解できても、動けるものではありません。
理詰めで説得されても、論理的には多分そうだろうと思っても、心が納得しなくて、却って反発する場合もあります。

 

人間は霊的な存在です。そして、肉体に宿っている時には、魂は肉体の姿を取っていますが、その魂の中心部分が心と言われるものです。
この心が、魂の司令塔に当たる部分であり、それは胸の部分にあります。
この心が納得しないと、本当の意味では動けないわけです。
 
徳のある人は、この心の動き、有り様が分かる人なのです。
徳とは、非常に愛に似ている部分があるとも言われますが、この愛の部分が活性化していると相手の心がよく分かるのです。

 

人間は、自分のことを理解してくれる人に魅かれますし、普通は分からないと思っていることを見抜き、愛情や励ましを与えてくれる人のためなら、自分を差し出すものです。その人のために、最高の自分を発揮しようとするものです。
 
才というものは、この世の基準でも分かり易く、相対的な世界の中で、判断できます。テストの試験でいい点を取るとか、上手に服を作るとか、それは誰もが分かります

 

しかし、徳は、眼に見えない心の世界の能力です。ですから、これは測ることができません。しかし、厳然として、その力は存在します。
「霊的な悟りの総合力」と言われていますが、悟りとは仏法真理を体得しているものが持つ宇宙の理法と一体化した力です。

 

例えば、「人の嫌がることを人にしてはならない、人のして欲しいことをせよ」とか、「人は与えたものを与えられる」などの仏法真理を本当に体得している者は、宇宙の理法を味方にして、発展繁栄できるのです。
これは、智・仁・勇という三つの徳目を実践の中で統合する努力を重ねた者が得られる神秘のパワーと言っても良いでしょう。

 

 

これからは心の時代です。心の眼を開いた人が、徳の力で才ある人々の力を生かして、新しい霊文明が建設されていきます。

 

福子3自分に与えられた天分、才を磨くことも大事ですが、その努力とは一味違う努力精進が、「徳」には要求されます。それは、心の修行、無我修行と言ってもよいでしょう。

 

人知れず、眼に見えない心の修行を積み重ねている者が、人々の心を見極めて本当に人々を生かすことができるわけです。

 

このように、「才は徳に使われる」というのは、当然の理だと言えましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたが幸福でありますように。

 


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