伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【『新・日本国憲法試案』からの学び(5)】

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【『新・日本国憲法試案』からの学び(5)】

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book_01_0111[「争うことなきを旨とせよ」]
今回は、前回に引き続き、『新・日本国憲法試案』第一条の中の「争うことなきを旨とせよ」という所に絞って、学びを深めてみたい。
[第一条]
「国民は、和を以て尊しとなし、争うことなきを旨とせよ。また、世界平和実現のため、積極的にその建設に努力せよ。」
 
「争うことなきを旨とせよ」という部分は、聖徳太子の『十七条憲法』でも、「忤(さから)うこと無きを宗(むね)とせよ」とあり、同義だと考える。
 
『十七条憲法』では、その後に「人皆(みな)党(とう)あり、また達(さと)れる者少し。ここを以て或は君父(くんぷ)に順(したが)わず、また隣里(りんり)に違(たが)う」とある。
これは、「人間にはみな無明から出る党派心というものがあり、また覚っている者は少ない。その為に、リーダーや親に従わず、近隣同士で争いを起す事になってしまう。」という意味である。
 
人間は、「波長同通の原則」に従い、類は類を呼んで徒党を組む。そして、その意見の違いにより党派性が出てくるものである。しかし、その違いは、「中道に入る事で新しい智慧を得て発展に入る為の材料にしか過ぎない」、という真理である事を覚っている者は極めて少ない。それ故、その解決が分からず、争い事が絶えないのである。
 
ふくろう19聖徳太子は、この無理解、仏教的に言えば「無明」という智慧の明かりの足りなさが、様々な争い事の根本原因だと見抜いた。だから、無明を取り除けば、争いは根本的になくなると観ており、それが可能なのは仏教の他にないと考えて、「三宝興隆の詔」を発して、仏教を国の柱に据えたのである。
 
「十七条憲法」のこの部分を、「天皇に忤(さから)わない」という意味に取って、聖徳太子を天皇絶対主義者のように見る向きもあるが、私はそう採らない。
聖徳太子の霊筆である事を信じるならば、今回の試案を見れば、「争うな、喧嘩をするな」という意味であって、絶対服従のような意味で「逆らわない」と取るべきではない。
 
仏法真理、縁起の理法からは、話し合いによる理解を得る為に、君臣、国民同士が腹を割ってお互いの気持ちをぶつけ合い、事理を尽くして、お互いが折り合う所を探せば、事態は収まる。即ち、中道を目指して事態を収拾していくならば、必ず、問題は収まるばかりでなく発展するという立場である。
 
仏教は基本的に平和主義である。故に、話し合いでの解決を目指す。ただ、イスラム教徒の軍事侵攻によって、インド各地の仏教寺院が徹底的に破壊され、僧侶と尼僧が虐殺された事で、仏教がインドで終焉した事を一つの教訓として、絶対非暴力主義を取る事は愚かな事であり、正義の戦いはなすべきだという修正が仏教に入った。現在の聖徳太子も幸福実現党もその立場を採る。
 
04021845_4f79753cedd43それは、試案の第五条に、「国民の生命・安全・財産を護るため、陸軍、海軍、空軍よりなる防衛軍を組織する」という所からも明らかである。
国防、自衛権は、当然の自然権であり、武力が抑止力になる事を知った上での賢明な対処の仕方なのだ。
 
そして、話し合いで必ず解決ができるという根拠は、前文にあるように、人間が神の子であって、仏性を宿しているので、仏の子同士が、仏の統べる世界で、共通の仏性に基づき、仏法真理を拠り所として解決を図る限り、必ず、お互いの立場は融合され、新しい調和が可能であるという真理に求める。
 
たとえ、現在は立場や考え方が違っていても、仏性を持つ身は、自分の考え方を自分の選択で自由に変えられるので、真理に基づいて自分を変えようと思えば、必ず、平和裏に共存、繁栄できる立場を示す事ができるのだ。
だから、「争うことなきを旨とせよ」という言葉は、仏法真理的な立場からは、必ず、思えば実践できる事なのである。
 
そして、この言葉は、信仰の立場に立つ事によって、単なる努力目標ではなく、必ず可能な理想の解決法、正しい考え方へと転換する機会となる。
book_01_0090そして、「争うことなきを旨とせよ」を行じること自体が「和の精神」となり、「和の精神」を尊ぶことになり、さらに、仏国土建設の努力となり、仏国土の理想そのものとなるのである。よって、この言葉の意味は大変重い

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたが幸福でありますように。

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