伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【三船久蔵十段・「柔道の神様」と言われた最後の柔道家(上)】

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【三船久蔵十段・「柔道の神様」と言われた最後の柔道家(上)】

518Krw+yOSL._SY300_私は、三船十段の名前も「空気投げ」という技も、知識としては知っていた。

しかし、その存在の偉大さを今まで考えた事もなかった。

 

事件は突然起こった。三船久蔵をYouTubeで見たのである。

それは正に事件。事件と言うのに相応しい衝撃だった。7段や8段の人が、まるで赤子のように見えた。

彼はダンスを踊っているように、力を抜いて相手と一緒に動いている。そして、相手の繰り出す技は、ことごとく一瞬の内に苦もなく外している。

 

それはまるで先に全てを分かっているような自然の身のこなしである。

技をかける時は一瞬。相手はコロッと一発で倒される。とにかく美しい。5人の高段者を次々と倒しながら、まるで何事もなかったように、息が上がっていない。

 

9784569815053「神を見た」と言うしかない心と身体の動きであった。

 

三船久蔵は、1883年2月15日、岩手県九戸郡久慈町に生まれた。

米問屋をしていた父は久之丞51歳、母はアサ42歳で、七人兄弟の末子だった。

久之丞は神仏に手を合わせぬ日がないほど信心深い男だったが、可愛さのあまり甘やかした為、久蔵は天衣無縫のわんぱく者となっていった。

小学校では成績は良かったが、仲間5〜6人従えて喧嘩して廻り、リンゴを盗んだり、ネコを殺したりして、悪さを重ねていた。

高等小学校卒業後、郡役所の給仕をしたが、何度も郡長に逆らい、わずか15日でやめた。呆れた父は、仙台二中に進ませようとする。5人に1人入学の難関高だったが、久蔵は見事突破する。

 

そこで、柔道に出会った久蔵は、第二高等学校に通い詰め、師範の大和田義一に熱心に教えを受け、校長に頼み込んで仙台二中に柔道部を創る。

彼は、第二高等学校と仙台二中で、15人ずつ出しての勝ち抜き戦の試合を企画した。

ここで二高生相手に、12人抜きの偉業を成す。彼は、いつしか柔道家を目指すようになっていた。

 

t02200293_0336044811997689128中を卒業した久蔵は、大和田師範から紹介されて、盛岡の柔術の名人・奥田松五郎を尋ねる。

ここで完膚なきまでに叩かれ、天狗の鼻をへし折られるが、奥田は彼の尋常でない強さを認め、柔道家になる事を薦める。

 

そこで、1903年、20歳で上京し、講道館に入門し、横山作次郎の弟子となる。父久之丞は、久蔵が柔道家になる事を好まなかった。

久蔵は、医者になるとの約束で、上京も許され、仕送りも認められたので、1904年に早稲田大学予科、翌年に慶応大学部理財科に入学する。

しかし、久蔵は専ら柔道に打ち込むのみだった。そして、入門して1年3ヶ月、21歳で初段となる。

 

彼の方針は、「得意技を持たない。全ての技をこなす。」事だった。

これが、身長159cm、体重55kgの軽量小躯の久蔵が、実力日本一になるための条件だった。

この時代は体重によって階級があるわけではなく、柔よく剛を制す為には、この努力をするしかないと彼は考えたのだった。

 

a9e5dc8e85a9fd0a7a83d250760805aa久蔵はとにかく強くなり、一番になりたかった。

しかし、講道館柔道の創始者である嘉納治五郎は、「柔術の術は付随したものであり、道に入る手段だ」と考えていた。

そして、精神修養としての効果を重視し、柔道修行の目的を「己を完成し、世を補益する」事に置いていたのである。よって「柔道は修行」との薫陶の元に、久蔵は次第に講道館柔道を身につけていく。

 

彼は三度の飯より柔道が好きだった。

久蔵が三段になったのは22歳9ヶ月の時である。もはや実力で彼に勝る者はほとんどいなくなった。

彼は24歳で東京帝大の柔道の師範になり、その後どんどん、明治大学、日本大学、国学院大学、東洋大学、早稲田中学、赤坂中学、東洋商業など、師範を引き受けていく。

 

1912年29歳の時には、三船強しの声価は高まり、日本一と朝日新聞が報じた。

この時、久蔵は5段、「講道館4強随一」と評されている。彼は新手をぞくぞくと開発した。

小さいからこそ、技の研究に懸命にならざるを得なかったからだ。後に、久蔵は「僕を小さく生んでくれた母親に感謝する」と言っている。

 

久蔵は講道館から全く動かず、ひたすら技を錬磨して、柔道のメッカの最高峰を心掛けた。

六段の頃に一度だけ、外国行きに心を動かされた時があったが、嘉納治五郎から翻意を促され、取りやめになっている。

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「一所懸命」、講道館から離れない、これが結局、久蔵大成の大きな要因になっているようだ。(続く)

 


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