伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【出光佐三・「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった士魂商才の経営者(上)】

Home / ときめきシニア / 【出光佐三・「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった士魂商才の経営者(上)】

【出光佐三・「海賊と呼ばれた男」のモデルとなった士魂商才の経営者(上)】

08221438_5215a3bd7606b百田尚樹氏の小説『海賊とよばれた男』のモデルとなった出光佐三は、1885年福岡県宗像郡赤間村に生まれた。父は藤六、母は千代、八人兄弟の三番目だった。

遠祖は大分の宇佐八幡宮の大宮司だったと言われるが、父は藍問屋を営んでいた。佐三は幼少時代から虚弱で、特に眼が悪かったが、勉強は良くできて、福岡商業学校卒業後、当時俊才が集まる神戸高等商業学校に1905年に入学する。

 

そこで、校長の水島銕也(てつや)に師事して心酔し、深い感化を受ける。水島は、「人間尊重」と「愛」を説き、「士魂商才」「黄金の奴隷となるな」と力説した。また、内池廉吉教授の「商業の社会性」に影響を受け、後の出光の商売の形態となった『大地域小売業』を構想するようになる。
卒業論文では「筑豊炭田」を取り上げたが、石炭と石油について「両者相助けて我が国工業の進歩、文明の発達に資すべきものなり」と論文に書き、後の終世の事業となる石油業との運命的出会いもここで果たしている。
4062778297

神戸高商卒業後「商人になれ。小なりと言えども商人は独立者だ。独立自尊だ。自分の思想や好みや信念が貫ける。」と言う父の進めに従い、商人の道を選ぶ。商人ならば、全体像を知り得る立場に立ちたいと考え、『酒井商会』という、石油・機械油と小麦を扱う商店に入った。

二年熱心に働くが、実家が藍玉業の不振と親類の債権補償で没落し、家族が散り散りになった事を知り、勤めを辞めて独立して、親兄弟を救おうとする。
この時、天の助けが及ぶ。学生時代に子供を家庭教師していた家の主の日田重太郎という地主が、佐三の苦悩を知り、京都に持っていた別荘を売って六千円(現在では6千万円以上)を作ってタダでくれたのだ。佐三26歳の時である。

福ROくん33「これはお前にやるのだ。返すには及ばない。利子もいらない。おれは事業に経験がないから興味もない。事業の報告もいらない。ただ、初志を貫いて終始一貫せよ。そして親に孝行して兄弟仲良くせよ。これがおれの希望だ。金はやるのだ。このことは人に話をするなよ。」

日田は佐三の人格に惚れ込んでいた。

51cnMPS-7iL._BO2,204,203,200_PIsitb-sticker-arrow-click,TopRight,35,-76_AA300_SH20_OU09_三は石油業を決意する。

門司に移り、母親の誕生日に合わせて開店し、水島校長の『士魂商才』の額を掛けて、機械油の販売から始める。

そこで水島の「石の上にも三年」の言葉を頼りに奮闘するが、資金は底をつき、日田に「もう店を仕舞いたい」と相談する。日田は「そんな事でどうする」と叱り、「資金の追加が要るのなら、まだ神戸の家が残っている。やり遂げなはれ。」と励ます。

ここにおいて、佐三は「俺にはもう、退路はない」と心底、性根が据わった。

 

その後、漁船や運搬船の動力用油に注目し、使用燃料油を安価な軽油にして、下関の機械漁業船への販売を独占する。さらに海上での艀やパイプを使っての給油法を編み出して顧客は激増し、商人としての成功を果たす。
下関の海上販売が軌道に乗り、満州に進出する。満鉄を相手に潤滑油で勝負をかける。そこには、既にスタンダードオイルが進出しており、相手にされなかったが、愛国心に訴え満鉄に食い入り、大正5年には大連に支店を作る。

さらに、酷寒の満州の凍結に耐え得る不凍潤滑油を開発し、外油のヴァキュームやスタンダードオイルに勝利し、出光の名を上げ、満州での地歩を固める。

 

5106RP8VZ1L._SL500_AA300_出光は、広い地域に亘り多数の需要者に、直接商品を届ける「大地域小売業」に拘った。これには、多数の店舗とそれを切り盛りできる人材を必要とする。

 

丁稚に来た者には、出光自身が全て「いろは」から教え込んだ。彼は店員を家族と見なして育てた。各支店、出張所には、必ず合宿所を設け、丁稚や社員が弊風に染まらぬように配慮し、相互に懇親と錬磨が進むように計らった。

そして、月に一度は「常会」を開いて、全店員と膝詰めで語り合った。

彼は「人間が資本である」「出光は人間尊重の道場である」という理念の元に、人材養成に取り組んだ。

そして、不動の主義を貫いた。これが出光の強さの秘密である。

 

「出光商会は金を儲けようとして出立したのではありません。一生懸命働き抜いてみよう。それも各個がバラバラに働くのではない。一致団結して働こう。これが人間が生まれ来たった所以であり、国家に対する責務であり、社会人としての道である。ここに不動の主義方針を持ってきたのであります。」

彼は独立自営に拘ったが、社員の独立自営にも

81dd37f7-e883-47c4-a42e-a313e295c4b5自己の仕事の範囲内では、全責任を負い、完全に事務を遂行すべきである。」

という哲学を持っていた。彼は、限りなく権限を与えて、自分で考え判断して行動するように訓練していく。

このように愛情を持って鍛えられた出光の店員達の実力はどこでも他者を圧倒し、鉄の如き結束の真剣な取り組みで、出光はどんどん発展していく。

しかし、時は世界恐慌、日中戦争、石油の禁輸から大東亜戦争に向っていく。石油は戦争の生命線となり、彼は日本の為に石油確保に大陸で奔走し、出光の店員の6割の7百名が徴兵されて、南方の石油政策にかり出されていくのであった。(続く)


ページのトップへ