伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【カントを超えて、「悟性の時代」に】

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【カントを超えて、「悟性の時代」に】

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61vjQPb8ILL._SL500_AA300_カントが神や霊・霊界を否定していたわけではないことはお判り頂けたと思う。

 

しかし、「理性のカミソリの刃」でもって、思想の自由を縛る縄を切っていこうと努力していたことが理解されただろう。

 

その行為は、中世的教会権力から学問を自由にしたのと同時に、神仏・霊界・魂から人間の精神活動を遠ざける力ともなったといってよい。

 

近代以降、ある意味で、「預言者は死に絶えた」のだ。
 
賢明な読者にはもうお判りかと思う。
現代日本で、「カント」対「大川隆法」の壮絶な思想戦が繰り広げられていることを。

 

異端審問のガリレオの側に立たされているのは、今度は「宗教」の側なのである。
「未来の学問」が成り立つかどうか、それは宗教への尊敬の念にかかっていると言っても過言ではあるまい。

 

           (「カント『啓蒙とは何か』批判」あとがきより)

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カントは神も霊も霊界も認めていた。
「理性のカミソリの刃」で、中世の教会権力のくびきを断ち切り、「思想の自由」と「学問の自由」を齎した功績はある。

 

しかし、神仏、霊界、魂から、人間の精神活動を遠ざけた罪がある。
それが近現代の基礎を築いた事は確かである。が…。
それは最高のものではなかった。

 

ryuho-okawaカントは理性で、人類に貢献したが、それは最高の精神機能ではない。
今、根本仏が現れて、文明の価値尺度を変えた。

 

カントの使命は終わった。カントは去るべきであろう。
しかし、カントの残した遺産は、それを善の装いのまま、立ちはだかる。
新文明の地平と世界は、理性では判定できないし、
決して乗り越えることのできないものである。
 
カントは神を認めた。実証できないものを学問の対象から外した。
仏神を認める限り、理性は最高のモノサシではない。
仏神を認めるならば、その可能性を否定しないならば、
まず、謙虚でなくてはならない。
 
カントが葬り、死に絶えた筈の預言者が現れたのだ。
否、最大の預言者、且つ、預言者を超えるものが現れたのだ。
 
07161525_51e4e73d00731現代日本で、「カント」対「大川隆法」の壮絶な思想戦が繰り広げられている。
その戦いは、原理において、既に勝負がついている。

 

神を認めておりながら、それを外す者と、それを包含して中心に据える者は、その大きさにおいて、強さにおいて、高さにおいて、勝敗は明らかである。
 
神の言葉を預かる者の可能性を信ずる者もあるだろう。
その教えの素晴らしさを受け入れる者もあるだろう。
しかし、それだけで、新時代が開かれるだろうか…。

 

カントの理性を乗り越えられるかどうかは、証明できないが故に、信じた者の努力にかかっている。
信じた者の理性を超えた「輝き」にかかっている。
 
ふくろう13心から尊敬される人々が、その人々への尊敬の念が、宗教の素晴らしさを実証し、宗教に対する不安と危惧を払拭していくのだ。
 
その尊敬が、理性を超えた、悟性を中心とした「未来の学問」を成立させ、生活の中で人々を変え、新しい「霊文明」が到来する日は近い。

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