伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【久保田一竹 「命を染める」挑戦(上)】

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【久保田一竹 「命を染める」挑戦(上)】

2776a_0000209449久保田一竹、「一竹辻が花」との出会いは、もう12~3年前に遡ります。久保田一竹氏が亡くなったのが2003年ですから、その直前でした。

私の妻が着物に興味を持っており、河口湖で久保田一竹美術館に行ったのがその始まりでした。

125030270601016420965その衝撃は、大げさではなく私の人生を変える程のものでした。こんな人が日本にいたとは…その作品の素晴らしさと人生の凄まじさ、その求道の志と到達した境地に目を見張りました。その後、4~5回美術館には行っています。

一竹氏は、1917年神田に生まれます。父は神田で骨董屋を営んでいました。関東大震災と保証で、一気に極貧生活に陥ります。家賃も電気代も払えない中、母、姉と一緒に毛糸の袖付けの内職を手伝っていました。

勉強は嫌いで成績は悪かったのですが、いじめをきっかけとして奮起し、学年で一番になります。

この時に、「人間はこうと決め努力すれば、不可能なことはない」と言う強い信念に至り、その後の支え、行動の原点になっています。

12歳の時、担任の先生から、友禅の道を教えられ、成績は平均点99.8を取っていたにも拘らず、「勉強ばかりが人生ではない。人間は仕事で勝負だ。自分の腕に確かな技術をつけよう」と一念発起し、卒業せずに14歳で京都友禅師・小林清氏、18歳で荒尾忠雄氏の内弟子に入り、寝食を忘れ修行に没頭します。
そして、19歳で、乾坤一擲、手描き友禅の世界で旗揚げし独立します。

その腕の良さから仕事は順調に進み、内弟子の時の5円の収入が、たちまち300円を越し、19歳で功なり遂げたような贅沢な生活をするようになります。

image20歳の寒い冬の日、運命の出会いが起こります。上野の東京国立博物館には、染色の勉強の為、毎日のように通っていたのですが、小さなガラスケースの中に、一枚の45センチ、20センチほどの子裂(こぎれ)を発見するのです。この子裂こそ、幻の染め・辻が花でした。

室町時代の中期から江戸時代の初期にかけて流行していた絵模様染ですが、染色技法は江戸時代に忽然と姿を消し、技術の伝承も断ち切られ、その多くが謎に包まれていたのでした。

イメージ 7れほどまで美しいものが日本の染め物の中にあった事に驚嘆し、喜びに打ち震えると共に、背筋に寒気が走るような衝撃を受けます。その時、守衛に閉館だと肩を叩かれるまで、この子裂の前に3時間は立ち尽くしていたそうです。

fukuro19この時、異次元の美、辻が花にいつか挑戦し、生涯を賭けようと心に決めます。
それからは辻が花の虜になりますが、本格的に研究を始めたのは、徴兵、軍役、シベリア抑留という疾風怒濤の時代を経た後で、この出会いから20年後でした。

21歳から2年間の兵役を経た後友禅を再開します。歌舞伎や舞台との縁もでき、人気絶頂の長谷川一夫の踊りの衣装を手がけています。

しかし、戦争で仕事は減り、1944年27歳で資産家の1人娘不二子と結婚した時は、ほぼ無一文でした。結婚後ほどなくして、中島飛行機製作所に徴用でとられ、旋盤を手にする日々を送っている所に、召集令状が届きます。

その時、妻は妊娠3ヶ月でした。

fukuro12朝鮮半島北部の萬城で終戦を迎えますが、ソ連の捕虜となりシベリアに送還されます。シベリアの思い出は、寒さ、飢え、重労働、同朋の死。極限状態に置かれた人間の生命と向き合います。

そんな中で、炊事班長に抜擢され、残り物やジャガイモの皮を日本兵に分配し、その御陰で命が救われていきます。

 

毎日人が死に、生きるだけが精一杯の中で、重労働を終え収容所への道すがら、遥か大雪原の彼方に沈む夕日を眺める事が唯一の心を満たす瞬間でした。シベリアの夕日はたとえようもなく美しく、疲れ果てた心を慰めると共に望郷の念に駆り立てるのでした。

yjimage「この美しさを辻が花で染め上げる事ができたら、なんと素晴らしい事だろう」これが、その後の辻が花制作の情熱の原点になります。

昭和23年6月、長い抑留生活を終え日本に復員します。妻の叔母の家の一角を借り、手描き友禅に再び取り組みます。辻が花は常に心にあったものの、研究の為の基盤作りに励みます。

この時は、シベリアの夕日の感動を白生地の上に映すのは、辻が花をおいてないと考えるようになっていました。しかし、なかなか実行できなかったのは、辻が花が幻の技法であり、絞りの技術さえ独学で立ち向かわなければならなかったからです。
しかし、意を決して、5年間の生活費と研究費を確保し、辻が花研究のスタートを切ります。しかし、それは大きな誤算でした。

5年後の浮上を目論んで沈潜したものの、20年という歳月を費やさねば浮かび上がる事ができなかったのです。

その20年、とてつもない貧窮に耐え、支えたのが妻不二子でした。(続く)


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