伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

【84歳のジャズマスター・秋吉敏子】

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【84歳のジャズマスター・秋吉敏子】

ToshikoAkiyoshi-caenegie吉敏子という奇跡のジャズピアニストに出会いました。

秋吉敏子さんは、1929年12月12日旧満州の遼陽に生まれで、小学1年生の時に3年生が弾く『トルコ行進曲』に魅せられ、小学1年生でピアノを習い始めます。

敗戦後大分に引き揚げ、別府の駐留軍キャンプでジャズピアニストとして演奏し、1949年上京しジャズピアニストとして活躍。51年には渡辺貞夫を加え、コージー・カルテットを結成しています。1953年に、その卓越したピアノをオスカー・ピーターソンに認められ、アメリカでも注目を浴びます。

1956年1月バークリー音楽院に奨学生として渡米し、56年、57年とニューポート・ジャズ・フェスにも出演、一躍注目の存在となります。59年チャーリー・マリアーノと結婚。以後チャーリー・マリアーノ(サックス奏者、前夫)、チャールス・ミンガス、ルー・タバキン(サックス奏者、現夫)らと活動します。

73年に「yjimageyjimageトシコ~タバキン・ビッグ・バンド」を結成し、数々の名演、名盤を世に残して、人気と地位を獲得していきます。74年発表の『孤軍』、76年の『インサイツ』等は、モダン・ジャズの金字塔として世界中で評価されています。

米国のジャズ専門誌ダウンビートでは、秋吉とルーのビッグバンドは批評家投票で1979年から5年連続、読者投票では1978年から5年連続で共に1位を獲得しています。その他、「ベストアルバム部門」や「作曲家部門」などを合わせると、1978年から1996年までの間に合計で29回も1位を獲得しています。

1996年度には、6e9a706f主にその著書『ジャズと生きる』で第9回ミュージック・ペンクラブ・ポピュラー部門最優秀賞を、1997年秋には紫綬褒章を受賞しました。
そして、1999年、日本人で初の『国際ジャズ名声の殿堂』入りを果たします。

さらに、2006年、遂に、全米芸術基金”Jazz Master賞”を受賞します。この賞は、米国を代表する偉大なジャズミュージシャンだけに贈られる、米国ジャズ界で最も権威のある賞です。
その他、旭日章、NHK放送文化賞、グラミー賞だけでも11回の受賞等、日米の名誉表彰だけでも20件以上、ジャズ雑誌などの受賞歴を入れれば100件近い受賞歴のある、名実共に日本が誇る世界的ジャズ・アーティストです。

この奇跡のミュージシャンをテレビで見て感動しました。84歳で現役バリバリで演奏し、若いミュージシャンからは、一番元気があると言われていました。
「一日鍵盤を押さないと筋肉が無くなる」と言って、レッスンは指のストレッチから始めて4~5時間に及び、午後4時まで毎日練習します。そして、それからは大好きなワインを飲むのです。夫婦揃って熱心なワインコレクターです。

渡米当時は、人種差別と女性への蔑視で批判を浴び続けたそうでimg_0す。偏見の中で、仕事がない不遇な時代は長く続きます。いつもコンサートの一番最初に演奏する「ロング・イエロー・ロード」は、その悲しみと日本人の誇り、それを乗り越えて道を切り拓いていくパイオニア精神が込められています。

彼女の人生で一番辛かったのは、離婚して、2歳の娘を取るか、音楽を取るかの選択を迫られた時だったようです。結局、音楽を取るのですが、その時の屈辱をバネにして音楽を究めて行きます。現在は、娘のマンディ・満ちるさんとも和解しており、彼女も母と同じミュージシャンの道を歩んでいます。

8513ZJN3YZ0L._SL500_AA300_4歳の彼女は、「そのままでは私が引く意味がない。私にしかやれないことをやってこそ、演奏の意味がある。それが良いかどうかは解らないが、私である事は間違いない。」と考えて、オペラをジャズピアノで引くという初挑戦を決めます。そして、苦心の末、オペラの編曲を書き上げ、ピアノ演奏の初演で喝采を浴びた後、記者の「できはどうでしたか?」と言う質問に対して、「65点くらい。次はもっとマシにできるよ。」と応えていたのには感動しました。

 

彼女の大好きなfukuro-suteki言葉は、「今日より明日」です。老いを蹴散らす元気の秘訣は、「何にでも好奇心旺盛な事」と、「新しい事にいつも挑戦し続ける事」だそうです。
秋吉敏子さんの目指すのは「永遠のパイオニア」
超カッコいい!ときめきシニアの鏡です。

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