伊田信光 幸福実現党 研修局長 オフィシャルブログ

【「一所懸命・無名有力」維新の偉大なる女子教育者-「高場乱(たかばおさむ)」】

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【「一所懸命・無名有力」維新の偉大なる女子教育者-「高場乱(たかばおさむ)」】

高場乱は、1831年、20101210_4筑前博多瓦町の眼科医・高場正山の二女として生まれます。高場家は代々眼科医の名門で福岡藩の藩医を勤めていましたが、正山には娘しかおらず、乱は男として育てられました。

乱には「みだれる」と「おさめる」という二つの意味がありますが、「乱世を正す」という父の気概と、乱の生き様を表しています。9歳の時、黒田藩に名字帯刀を申請して許され、10歳で元服。

16歳で一度は結婚しますが、不服として自ら離縁します。ここで、乱は「男」として、医術と学問と社会正義に一生を貫く決意を固めたと言われます。
20歳の時に亀井昭陽の亀井塾に入ります。亀井塾は身分性別を問わず、個性尊重、長所発揮の学風で、乱は精進し、四天王、三女傑とも呼ばれていました。

幕末の嵐の中で、01300000085669122122027562045親戚の野村望東尼、勤王志士平野国臣、高杉晋作等の影響も受け、迷いの中にあった乱は、39歳の時に、『管子』の中の一文に出会います。「一年の計は穀を植ゆるに在り、十年の計は樹を植ゆるに在り、百年の計は人を養うに在り」

これを読んだ乱は、1873年に、漢学の「興志塾」yjimage(通称「人参畑塾」)を開設し、医業を実践すると共に、教育にも携わる道を選びます。男装をして、頭は髷(まげ)足に木履、両刀を差して乗馬して、血気盛んな青年を随伴して往診に行ったと言われます。弟子は乱暴者が多かったようですが、「若い時は行き過ぎがあったほうがいい、それ位でないと将来国事を託すに足る人材に育たない」と言って、そういう人物の入塾を拒まなかったと言います

乱は無欲で、塾生から謝礼も受け取らず、至誠、豪快、度を越すほど物に執着せず、青年達に気迫で向かいました。世間から「人参畑の女傑」と呼ばれ、塾も「梁山泊」と呼ばれていましたが、乱自身は生来虚弱で華奢でした。

乱は「興志塾」で、日本の進むべき道を、学問を通して徹底的に叩き込みます。塾生は合宿生活。自分達で建てた寄宿舎に寝泊まりし、早朝から『論語』『孟子』『史記』『孝経』『三国志』『水滸伝』等を読みます。

乱は、彼らに常に忠孝、節義を説き「君子の生き方」を教授しました。

その弟子達が起こした1877年の福岡の変への関与を疑われ、乱も一時は拘束されますが、釈放されています。

自由民権運動のうねりの中で多くの弟子達が命を失っていきます。弟子の一人である来島恒喜が大隈重信へのテロを仕掛け自殺した事には衝撃を受け、これを「匹夫の勇」と評した書簡が残っています。その翌年、乱は後を追うように病床に伏し、医者であるにも関わらず一切の治療を拒みながら、弟子達に看取られつつ60歳で逝去しました。葬儀には乱の死を悼む500人近くの人が集結しました。

高場乱は日本の近代史の中にd0131804_21161198kaishuu大きな影響を及ぼした偉大な女子教育者です。「人参畑のばあさん」と呼ばれ、明治初期の多くの青年達を感化しました。その影響を受けた者は300人は超えると言われています。

墓は崇福寺にありますが、その墓碑銘は勝海舟が書いています。

倒幕及び日本の行く末の舵取りが出来る青年への教育に地元・福岡で、一生動かず心血を注ぎました。

書物を残さなかった為、全国的な知名度は低いと言えましょう。しかし、同時代を生きた吉田松陰を超越する影響力を誇ったと評価する人物もいる位の時代への影響力を残したのです。それも、男尊女卑が色濃く残る時代背景と、最も男性の権威が重要視される九州という土地柄の中で。

「一所懸命・無名有力」は、乱に相応しいイメージ 8言葉かもしれません。乱の生き方に言い訳はありません。今求められる新時代の革命の志士の生き方そのものです。

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