伊田信光 幸福実現党 研修局長 オフィシャルブログ

【勤王の女傑-皇室と志士のパイプ役-村岡局(むらおかのつぼね)】

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【勤王の女傑-皇室と志士のパイプ役-村岡局(むらおかのつぼね)】

津崎矩子no24は、1786年京都の上嵯峨村に生れます。父は大覚寺門跡に仕え諸大夫を務めた津崎左京です。幼い頃から聡明で、同年輩の村娘達に百人一首を教えていたそうです。13歳の時、その利発さを見込まれて、五摂家筆頭の近衛に召し抱えられます。矩子は、父と近衛家から尊王思想の影響を受けて育ちます。
女中名は田鶴、須賀野と出世して、老女の位を得て村岡局(むらおかのつぼね)と称するようになります。
近衛家の当主近衛忠煕(ただひろ)に仕えて信頼を得た村岡局は、優しい性格の忠煕を補佐し、京都の尊王攘夷のリーダーに押し上げる為に努力し、水戸藩家老・安島帯刀や西郷隆盛、勤王僧・月照、梅田雲浜などの勤王家と盛んに交流するようになります。梅田雲浜は、村岡局の補佐ぶりを、「陽明家(近衛家)の清少納言」と称して褒めています。

村岡局は1856年、70歳にして表舞台に立ちます。GY12-2薩摩の島津斉彬が、image養女・篤姫を近衛忠熙の養女とした上で、将軍家定の三度目の夫人として送る際に、養母役として選ばれたのです。島津氏側では、西郷隆盛を篤子入輿の世話役に任じ、ここに、村岡局-西郷のラインが成立する事になります。

両者は親しく接して人物を認め合い、分け隔てなく国事を語り合うようになります。そして、ここに僧月照が加わり、西郷共々刎頸の交わりを結びながら、尊王攘夷を展開していくのです。
近衛家の歌会は、当時は村岡局の根回しで、京都の尊王攘夷派の秘密の連絡会のような性格も帯びていました。

歌会に出席する志士浪士の世話を、村岡局はこまめに面倒みたようです。70歳を超え、生涯結婚しなかった村岡局にしてみれば、志士達は子供や孫のように思えた事でしょう。
安政の大獄で井伊直弼が就任すると、尊王攘夷派の徹底的な弾圧に踏み切ります。

この時、月照西郷を夜陰にまぎれて逃がしたのが村岡局です。しかし、局自身が、京都奉行所に捕らえられ江戸送りとなります。

イメージ 774歳になっていた局にとって、罪人扱いの唐丸籠での旅はひどい扱いでしたが、常に泰然とした姿勢を崩さず、警衛の幕吏達を感嘆させたと言います。

その時、日に日にと変わる旅路はかはらぬは 人のこころのまことなりけり」と、詠じています。
評定所の御白州での取り調べは峻厳を究めました。しかし、村岡局は最後まで屈する事なく堂々と信念を述べて、主家近衛家や、西郷、月照に災いが及ばぬように口を割らずに通しました。

この頃、やはり、大獄に連座して江戸伝馬町の獄舎に収監されていたshoin吉田松陰は、村岡局の態度を伝聞し、その烈女ぶりを賞賛する手紙を松下村塾の門弟達に書き送っています。

処分は、30日の禁固刑という異例の軽い沙汰でした。篤姫の救護の手があったのでしょう。
赦免の後は、京都に帰り、直指庵で隠棲生活をしました。しかし、彼女の盛名を慕って尋ねて来る人は引きも切らなかったと言います西郷も常連客でした。
その為、再び嫌疑をかい、1863年には江戸の獄につながれます。その後、解放され、また直指庵に隠棲した村岡局は、1873年、明治維新実現の朗報に会心の笑みを浮かべた6年後、88歳で天寿を全うします。

1891年、村岡局に従四位が明治天皇から追贈されました。生前、無位の女性に対する死後の贈位は、この従四位が最高のものです。彼女に対しての、幕末の志士達、明治の元勲達の評価がいかに高いものであったかが伺われます。

イメージ 6津崎矩子、後の村岡局は、仏門に生まれ、天皇家を支える五摂家に仕える中で、仏神の手足として、天皇家と勤王の志士達のパイプ役として、無我無私に全生涯を維新の為に捧げます。
西郷も松蔭も賛嘆させた勤王の女傑は、終止黒子に徹し、役割に徹し、陰の勤王派の守護神として生涯を貫きました。

最後は直指庵で里の子供達の教育をし、88歳で静かにこの世を去ります。
そこには、「使命を果たしました」と微笑みを浮かべる女傑にして、信仰者の姿があります。

理想のNo.2のお手本としても記憶されるべき方でしょう。
yjimage京都の大覚寺の北にある直指庵に、村岡局の墓はあります。


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