伊田信光 幸福実現党 研修局長(兼)シニア局長 オフィシャルブログ

「幕末・明治を疾風の如く駆け抜けた女傑にして信仰者」奥村五百子 

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「幕末・明治を疾風の如く駆け抜けた女傑にして信仰者」奥村五百子 

奥村五百okumura-s子(おくむらいおこ)は、1845年唐津で、浄土真宗東本願寺派高徳寺の住職、奥村了寛の子として生れます。5歳頃から、母朝子に舞踊や三味線、管弦、裁縫などを教わりますが、どれも人並み以上でした。さらに、7歳頃からは唐津神社の宮司・戸川惟成の私塾に通って国学を学びます。
正義感が強く、女の子を苛める男の子を懲らしめるお転婆ぶりを発揮し、師匠に嗜められると「女らしくする為に悪い事を見逃さなければならぬなら、私は女になるのは嫌い」と反発したと言われています。
父や兄の尊王攘夷の思想の影響を受け、15歳の時には、両親の猛反対を押し切って、京都や大阪の見聞を広める為に、大阪の唐津藩屋敷で2ヶ月滞在し帰国しています。
光徳寺は尊王・倒幕派の拠点になっていましたが、18歳の時には、父の命を受け、深編み笠に義経袴、草鞋履き、朱鞘の大小という出立ちの男装をして、長州への密使の役を果たし、了寛の長州に寄せる期待を熱く語ったと言われています。また、佐幕派の監視を潜って、対馬藩や福岡藩の勤王党との連絡役を果たしています。
22歳の時、大谷派の福成寺住職・大友法忍に嫁ぎますが死別します。続いて、水戸藩出身の志士、鯉淵彦五郎と再婚し、茶を売ったり古着屋を開いたりして、夫と子供達を養いますが、やがて征韓論を巡る意見の対立で離婚します。
4ensin-l3歳になった五百子は、三児を伴って唐津に帰郷し、唐津藩の家老小笠原長行の子・小笠原長生の知遇を得て、選挙、養蚕や交通の整備、唐津開港に関わり、唐津の発展に寄与します。
1896年には朝鮮半島に渡り、光州で実業学校の創設を目指します。朝鮮の人々に養蚕や米作の技術を教え、農業技術を改良して生活を豊かにする事が、長期的には極東の友好、融和の為に、最も大切な事だと考えたからでした。
貴族院議長・近衛篤麿と外務大臣・大隈重信が支援に乗り出し、1898年9月「奥村実業学校」が光州に開校し、五百子は東本願寺から校長として任命されます。五百子は更に、ソウルに徳風幼稚園という名の幼稚園も作ります。また、半島へ浄土真宗布教のために渡った兄・奥村円心の伝道活動も助けています。
okumura_ioko_bこれらの事業も通して、天野為之、大隈重信、海軍幹部、華族の夫人達、そして皇室にまで五百子の人脈は広がっていきます。五百子の社会活動を援助した人々には、榎本武揚、樺山資紀、近衛篤麿、島田三郎、楠本正隆、箕浦勝人らがいました。
何故、これほどまでに五百子は、大切にされたのか。その第一の理由は、五百子の社会思想と運動が当時の日本の国策に合致した点、もう一つの理由は、五百子の痛快な人柄にあったと言えるでしょう。
書道の達人でもあった長生は、五百子に「三無婆庵」という雅号を選びました。「三無」とは「私欲がない、駆け引きがない、負け惜しみがない」という意味です。
61272877東本願寺は五百子に、中国南部への布教の為の視察を命じます。1900年2月、五百子は門司を出て福建省福州へと向かいます。この頃から五百子は、日本女性の代表として国家の為に身を捧げる、一種のカリスマとなりつつありました。
病躯を押して中国へと渡航する五百子に対して、東伏見宮妃殿下周子は「ますらをも及ばざりけり 国のためこころつくしし 君のまことは」と餞別の歌を贈り、歌人で華族女学校教授の下田歌子は「日の本のまことの種子を もろこしの原にも植えよ やまとなでしこ」と詠みます。日本の上流階級の夫人達がこぞって五百子を讃え、その活躍に声援を送りました。
五百子の中国滞在中に義和団の乱が起こり、日本を含む8ヶ国連合軍(日英米仏露独伊墺)がこれを鎮圧します。この北清事変で、各国に多数の死者が出たので、東本願寺は慰問団の派遣を決めます。五百子は戦争現場に足を踏み入れ、惨状を目の当たりにして衝撃を受け、国家の為にこうして死んで行く多数の人々に対して、仏教の使者として、また女性としてそれを慰め、ねぎらう運動をしようと決意します。そして、女性による兵士慰問と救護や、遺族支援が必要だと考え、1901年近衛篤麿・小笠原長生や華族婦人らの支援を受けて、愛国婦人会を創設します。
yuzatu-l五百子は1901年4月、京都から全国行脚を始めます。薬を片手に病んだ老体に鞭打ち、味噌汁と冷飯の食事で、寺など安い施設に泊まりながら、足掛け4年にわたり、1道2府39県で350回を超える演説会を開きます。近代日本の政治史、社会運動史において、一人の人間がこれだけの遊説を集中的に行った例はないでしょう。しかし1904年、大分市の壇上で大量の吐血して、この苛酷な荒行は打ち切られます。
貴婦人達の運動組織として始まった愛国婦人会でしたが、全国遊説の効果に政府・軍の支援もあって、数年で50万人以上の会員を抱える巨大組織となります。また、日露戦争の時には病身を押して献金運動への女性の参加を呼びかけ、戦地慰問も努めます。敵味方の別なく戦死者に向けて念仏を唱え、傷病者を見舞いました。
日露戦争慰問で病状が限界に達した五百子は、翌年婦人会の仕事をすべて辞します。そして、自らの理想どおり、地位も財もなく、ただの老婆として唐津で隠居療養生活を送り、1907年2月7日63歳で死去します。
イメージ 7奥村五百子は幕末から明治末期まで、常に時代精神を体現して、疾風の如く駆け抜けました。尊王派の討幕運動、自由民権運動、地域産業振興の運動、朝鮮半島における実業教育、最晩年の愛国婦人会運動、いずれも非常に独創的な事業であり、起業家精神に満ちたチャレンジ人生でした。まさに、女傑!しかし、その本質は伝道であり、その根底に「仏教精神」が流れていた事を忘れてはなりません。まさに、ときめきシニアのお手本です。

 


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