伊田信光 幸福実現党 研修局長 オフィシャルブログ

94歳からのススメ・・・超弩級ときめきシニアへようこそ!

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94歳からのススメ・・・超弩級ときめきシニアへようこそ!

イメージ第二の人生」の生き方で、最初にご紹介するのは『生涯現役』の書籍に取り上げられている江戸後期の測量学者、伊能忠敬です。

千葉県九十九里町に生まれ、18歳の時に酒造家伊能家の婿養子となり、危機的な状態だった家業を、約10年間で完全に立て直しました。天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済した功績が幕府に認められ、苗字・帯刀を許されました。

50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、天文学を勉強する為に江戸へ。イメージ 15平均寿命が40歳ぐらいだった時代に51歳で測量の勉強をするために、自分より19歳年下の師至時先生に入門し5年間勉強したのです。メンツを重んじる封建社会の時代に、19歳も年下の青年に頭を下げて弟子入りするなど、できることではありません。しかし忠敬にあったのはそんな小さなプライドより熱い向学心だったようです。

当初、至時は忠敬の入門を“年寄りの道楽”だと思っていました。しかし忠孝が寝る間も惜しんで勉強をしている姿を見て、「推歩(星の動きを測ること)先生」と呼ぶようになったそうです。

??忠孝は55歳から日本全国の測量を開始しました。測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するという気の遠くなるようなものでした。

実は最初から日本地図を創ろうと思ってはいなかったようです。真の動機は、「地球の直径が知りたい。」というものだったのです。「北極星の高さを2つの地点で観測し、その角度から計算すれば地球の外周がわかると考えました。2つの地点は遠いほうが良いので蝦夷に行くことを考えたのです。当時蝦夷に行くには幕府の許可が必要で、『地図を創る』という名目で許可を取りつけました。

イメージ 30忠敬は3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった地球の大きさの計算に取り組みました。その結果を、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と照らし合わせると、共に約4万キロで数値が一致し、師弟は手に手を取り合って歓喜したそうです。

西日本の測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だったようです。そして、1815年忠敬70歳すべての測量を終えたました。15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになります。

イメージ 14各地の地図を一枚に繋ぎ合わせているさなか、1818年、73歳で帰天しました。高橋景保(至時の息子)や弟子たちは“この地図は伊能忠敬が作ったもの”、そう世間に知らしめる為に、彼の死を伏せて地図の完成を目指したのです。

1821年、江戸城大広間。ついに日本最初の実測地図「大日本沿海輿地(よち)全図」が広げられました。地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が3枚という、途方もない規模のものでした。

イメージ 1忠敬の死から43年後の1861年、来訪したイギリス測量艦隊が幕府に強要して日本沿岸の測量を始めた時、幕府の役人が持っている地図を見て、こんな正確な地図があるなら今さら測量する必要はないと測量を中止してしまったそうです。鎖国状態にあった日本を、西洋の知識人は未開の文明後進国だと決め付けていましたが、世界水準の正確な地図を持っていることに驚き、見下すことを改めたといわれています。

イメージ 16忠孝の人生は、現在に直すと平均寿命83歳として94歳から99歳まで測量の勉強をし、99歳ら115歳まで日本全国を歩き回わり、120歳までに日本地図をつくったことになります。

 また、「三つの凶兆を振りほどいて出発した。」と後に言われるほど忠孝の仕事には困難があったようです。

「三つの凶兆は『行くな。』という天の意思表示に違いない。」と強く止める言葉も意に解さず出発しました。

また、fukuro16測量の途中で五回ほど病気を経験し、死にかけたほどの大病もしました。しかし、そのようなことは言い訳にせず、じぶんの志を成し遂げたのです。

「人間は、年齢によって、能力が止まってしまうわけでもないし、行動力がなくなってしまうわけでもない」と言われています。

イメージ 2それにしても、現在の年齢にあてはめて、94歳に「地球の直径が知りたい」と幕府を煙に巻いて蝦夷に行く許可を取り、115歳まで4万キロ歩くなど、超弩級の方ですね。

 

そこまでの偉業を成さしめたのは、「心であり、志」だと思います。

 

 

 

 


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